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※この記事は『インターネットマガジン2005年6月号』(2005年?月??日発売)に掲載されたものです。文中に出てくる社名、サービス名、その他の情報は当時のものです。

 

[INTERVIEW]
インターネットだけでは
ユビキタス社会は創れない。
坂村健教授

「ユビキタス」という言葉を使い始めたのは、1980 年代末だといわれている。それ以前から「どこでもコンピュータ」というコンセプトで、いち早くこの分野の研究に取り組んできたのが坂村健教授だ。

TRON という技術を中心に、コンピュータ、ネットワーク、そして人間の理想的な関係を目指してきた取り組みは、さまざまな形で実を結んでいる。愛知万博とリンクして公開された電脳住宅「PAPI(パピ)」は、坂村教授がトヨタと共同で設計建築を行ったユビキタスコンピューティングハウスである。さまざま場所にRFID タグを埋め込むことで環境認識を実現する実験プロジェクト、さらには坂村教授の目から見たインターネットの今とこれからの姿について話を伺った。

聞き手:本誌編集長
Photo:渡徳博

PAPI は、TRON によって実現された夢の電脳住宅

――愛知万博の開催に合わせて、トヨタと共同で手がけた住宅「PAPI」が公開されました。ユビキタスコンピューティングを活用した近未来の生活を提案されているとのことですが、具体的にどういった技術が使われているのでしょうか。


PAPI にも組み込まれているセンサー端末

PAPI は、トヨタ自動車と5 年かけて作った電脳住宅です。愛知万博とはリンクしていますが、万博の展示物というわけではありません。万博の会期後も残しますし、場所も万博会場ではなくトヨタ博物館の隣のトヨタの敷地内にあります。

ユビキタスコンピューティング研究の一環として、10 年ほど前にも六本木に電脳住宅を作りましたが、今回はその第2 弾ということになります。PAPI では、コンピュータがどこにでもあるという、まさにユビキタス住宅を実現しています。

PAPI の中には、無線有線を含めてさまざまなセンサーノードが組み込まれており、それによって常に家全体の温度や湿度といった情報をキャッチしてコントロールできます。面白いのは、トヨタ自動車と共同で作ったため自動車に関する技術が使われているという点です。たとえば、正常時と非常事態の動作の違いというものがあり、通常は電動コミューターカーに充電するためのガレージ内のターミナルが、停電時は逆にハイブリッドカーがガソリンによって発電した電気を住宅に流すために使われます。ガソリン満タン時ですと、その発電によって36 時間電気を供給できます。

――組み込まれているセンサーは互いに通信してセンサーネットワークを構成すると思いますが、それにはどういった規格やシステムが使われているのでしょうか。またその中で、インターネットはどのような位置づけなのでしょうか。

PAPI のセンサーネットワークを支えているのはnT-Engine のリアルタイムネットワークです。これは、他に比べてリアルタイム処理に優れたものです。自動車や家の制御にはリアルタイム性が求められます。どれだけの時間で相手にメッセージが届くかの保証が必要ですが、このネットワークではそれを確立しています。

リアルタイム性というのは、インターネットのようなベストエフォート型のシステムで実現するのは難しいものです。

組み込みシステムの世界では、同じリアルタイムでも、そういった要求のより厳しいものを特に「ハードリアルタイム」と呼んでいます。これに対して「ソフトリアルタイム」という比較的ゆるいものもあります。こういったものは組み込みLinuxでも対応できますが、TRON で行うハードリアルタイム処理と比べるとまったく異なります。理由は、OS の根本的な構造から違うからです。これは良い悪いではなく、根本様式からして対応できないのでしょうがないのです。

たとえば、リアルタイム処理の中でも特に無線通信の制御となると、タスクの切り替えを1 マイクロ秒以下で行わなければならないとか、割り込み応答時刻に対する非常にシビアな要求があります。そういったものはTRON でやっています。

ハードリアルタイムは、そういうケータイの電波を制御したり、自動車のエンジンをコントロールしたりするものです。ただ、世の中はリアルタイム性だけが求められるわけではありませんし、インターネットにはインターネットのよさがあります。それぞれ適材適所があるので、目的に応じて使い分ければよいのです。

ハードウェアが古くなるのは必然で、重要なのはソフトウェアの互換性を維持すること

――住宅内の管理やセンサーネットワークとして、たとえばローンワークスといった規格もあります。これらはTRON と比べてどうなんでしょうか。

ローンワークスは、確かに制御用に使われてきていますが、考え方が古くなってきているのではないかと思います。ただ、誤解しないでほしいのですが、そもそもアーキテクチャーというのは、作ったときによってできることややろうとしていることが異なりますから、時間が経つととともに古くなってしまいます。その当時はベストだったかもしれませんが、今現在においてどうかということを考えると、ハードウェアもすごく進化しているし、使われる環境も大きく変わっているのだから、それに合わせた仕様というものがあるはずです。そういう意味で、今あるものも含めてすべて古くなってしまうんです。

20 年くらいTRON をやってきましたが、これも同様にアーキテクチャーを変革し、発展要因を持って修正していく必要があります。基本アーキテクチャーは、チップの性能や機能などに合わせて変えていかなければなりませんが、これはコンピュータ屋の宿命としてしょうがないんですよ。

ただし、ハードウェアが変わっても、その上で動くソフトウェアは使い続けられるようにしていくべきです。つまり、互換性を持たせつつ、改善できるところは変えていけるというアーキテクチャーであることが重要なのです。

一斉を風靡したIBM のSystem/360という大型コンピュータがありますが、あれが長く使われたのは、ソフトウェアの互換性があったからです。アーキテクチャーというものを考えたときに重要なのは、互換性を維持しながらも、変えたほうがいいところはどんどん変えていけるものであることだと思います。

そういったことを考慮して、時代に即したここ何十年かは使い続けられるリアルタイムOS として作ったのが、T-Kerneです。

たとえば、今から10 年前ですと、無線LAN なんてことはまず考えもしませんでした。RFID にしても、携帯機器に組み込めるような小型のリーダーライターが使いものになってきたのはここ最近です。通信方式だって間もなくUWB が登場して、従来のものとは比べものにならない速度が出ます。ギガヘルツ帯の電波を自由自在に操れる技術なんて、10 年、20 年前には存在していなかったのですから。

このように、技術は時代によってあらゆるものが相対的に向上するものですから、ネットワークにも新しい時代に合わせた新しいものが求められるはずです。そういう意味ではインターネットだって例外ではなく、変革を求められていくのではないでしょうか。

TCP/IP は非常にすぐれたアーキテクチャーですし、長い実績もあります。ただし、今のインターネットが100 年後も使われているかどうかは分かりません。

インターネットにも大きな変革が求められている

――最近の傾向として、従来のTCP からUDP を使う割合が高まってきています。使われ方が少しずつ変化し、IP 電話などリアルタイム処理の需要が増しているということだと思いますが、それ以上の変革が必要だということでしょうか。

もちろんです。インターネットも例外ではないでしょう。ただ、インターネットが非常に優れていると感じるのは、UDPという新しいものが出てきても、ベースになっているものはこれまでどおりで対応できるという点です。これは大したものだと思いますし、やはりアーキテクチャーがよくできているということでしょう。

――本誌2005 年4 月号のインタビューで、TCP/IP を発明した1 人であるロバート・E.カーン氏は「IP の設計は汎用的にできているので、この先も使い続けられる」とおっしゃっていました。

それは、私もそう思いますよ。TCP/IPは非常によくできています。私自身もアーキテクトですからより強く感じますが、今から何十年も前によくこういう方式を考えたものだと感心します。インターネットの優れている点は、プロトコルレイヤーの上と下は規定せずに、真ん中だけを決めたということです。TCP/IPというものを軸として、時代の変革に耐えられるように設計されているんですよ。

ただし、一から作り直すとなったら、ロバート・カーンさんだってまったく同じままとはいわず、作り直したいところもきっとあるはずですよ。それは、常にどの時代でもあることです。

私もTRON をずっとやってきましたが、今のTRON で不十分かときかれたら、ロバート・カーンさんと同じように、そんなことはないと答えるでしょう。TRON の設計や機能は今でも通用しますし、古くてダメになったということもありません。しかし、20 年も経つと、やはり細かい点をチューニングしたり、さらに21 世紀のユビキタスコンピューティングの応用に合わせて変えたいなという部分はあるんですよ。ただ、基本になっている考え方は変わっていません。

インターネットに足りないものはセキュリティー

――インターネットで具体的に要求仕様が足りないとか、技術的にこの点が不十分といったものはどこでしょうか。

まず確実にやらなければならないのはセキュリティーです。eTRON というのがありますが、これはセキュリティーを実現するためのチップです。

これまでも、1 つの大型コンピュータの中でのタスク間セキュリティーみたいなものについては考えられてきました。これが今のようなネットワーク時代になると、ネットワーク間のセキュリティーをよりシビアに考える必要があります。そのときに、セキュアーなアーキテクチャーという観点で見直すと、あまりにもケアされていなくて、これまで何もやっていなかったとしかいえない状態です。それで、いざやろうとなると、ソフトウェアで実現するしかない。

ところが、昔から取り組んでいる人たちの予想を裏切っている事実として、世の中にここまで悪いことをする人間がいるのかと思えてしまう厳しい現実があります。今のネットワーク犯罪やIC カード犯罪の手口を見ていると、前では予想もできなかったことが行われています。

LSI チップに熱硝酸をかけてはがして、中の回路を電子顕微鏡で覗いて解析するなんてことは、20 年前には想像もしませんでしたが、それが今は現実になっています。だから、そういう部分のセキュリティーについては、何もしていなかったといわざるを得ないんですよ。これから作るとしたら、そこには当然手を入れなければなりません。

実はリアルタイムシステムも同じなんです。20 年前のリアルタイムシステムもすべてスタンドアローンでした。携帯電話を作ったときも、電波でネットワークにはつながるけれども、少なくとも電話機単体については、無線はアプリケーションレベルでつなげているだけで、システム自体は切り離されていたわけです。

ところが、今は音声もすべてデジタル化されて、分散コンピュータネットワークのノードの1 つになっています。これがさらに常時接続となると、セキュリティーについて考えないといけません。デジタル電話のネットワークを通して携帯電話がハックされるということも起こりうる。そうなると、じゃあ携帯電話の中にファイアウォールを入れなければいけないとか、そういう笑い話のようなことになってしまいます。

つまり、それだけ大変な時代だということです。したがって、セキュリティーを根本的にサポートできるようなアーキテクチャーを考えなければいけないし、その1 つがeTRON なんです。

これはソフトウェアだけでは実現できず、専用のチップを作ったくらいです。現在はまだ、統合したチップですべての処理を行うのは難しいため、CPUとは別のセキュリティー専用チップを使っています。これも製造技術が進めば同じダイの上に統合されていくことになるでしょう。

このセキュリティーというものは、ネットワークのレイヤーでいうと下のレベルであるほど汎用性があるため効果も高くなります。OS レベルか、可能ならチップレベルになります。今のインターネットではすべてアプリケーションレベルでやっていますから、そこが問題なんです。

インターネットの未来ということでいえば、セキュリティーに関してはきちんとやっていかないとだめなんじゃないかという気がしています。それ以外の、たとえばマルチメディアデータを扱うといった場合は、現状でも問題ないとは思いますが、それも著作権処理などを考えるとセキュリティーと密接な関係があります。

これだけインターネットが社会に入り込んできて、いまや世界バックボーンといわれるまでになったからには、そこが一番重要になると思います。

すべてをインターネットにつなぐ必要はありませんが、外のネットワークに出て行くとなると、インターネットを使うのがコスト的にも安いので、結局はどんどん普及することになります。そうなると今度は、ひとたび犯罪などが起こると致命的な事態になりそうだということは、誰でも薄々感じていると思います。インターネットをバックボーンとして使うことが拡大するにつれて、それが崩壊したときの危険度も比例して大きくなっています。

たとえば大型コンピュータの時代に、「IBM のSystem/360 じゃなければダメだ」みたいな、360 が世界を支配していた時代がありました。ところが、今ではそれがすっかり置き換わっています。人間社会のすごいと思うところは、決して絶対というものがないことです。もしかしたらインターネットも、気が付いたときには大変貌を遂げていたなんてことになるのかもしれません。それは、セキュリティーが鍵を握っていると思います。

ユビキタスの実現で重要なのはコンテクストアウェアネス

――コンピューティングは、物から場所や情報、環境の認識というものに移っていくとおっしゃっていますが、それはどういうことでしょうか。

まず、ユビキタスコンピューティングにおいて重要なのは、「コンテクストアウェアネス」ということです。周りの状況を認識するという技術です。今まではデータベースを作るといっても、コンピュータの中にバーチャルな本棚を作って、その中で何冊という風にやっていました。これは、部屋の中にある本をコンピュータの入力をせずに持ち出してしまうと、実際とデータが食い違ってきます。

我々がやっているのは、あらゆるものにucode という識別番号を付けて、それがどういうものかをユビキタス端末で読み取るというものです。そうすると、現実の世界とコンピュータの中の仮想世界を常にリンクさせることができます。

このYRP ユビキタス・ネットワーキング研究所にあるものにもタグを付けて管理しています。ユビキタス・コミュニケータというリーダー端末を使うとそれらの情報を読み取ることができます。例えば壁の絵画からは製作者の情報、植木鉢からもいつどこから納品されたものかを読み取ることができます。


部屋に置かれている鉢植えにはucode タグが貼り付けられており、ユビキタス・コミュニケータで読み取ると関連するさまざまな情報が表示される。

ただし、かなり進んできてはいますが、普及させるにはまだまだこれからです。まず、あらゆるものに付けないと意味がないし、これは1 人だけやってもしょうがない。みんながやらないとどうにもならない。そういう意味で、どうしても時間がかかってしまいます。

愛知万博でも、国土交通省と共同で行ってるものに、自律移動支援プロジェクトの実証実験があります。RFID タグを場所に埋め込んで、端末で読むことでユーザーが情報を得られるというもので、障害者の方でも安全に歩行できるようにサポートします。これは、昨年から神戸でも行っているプロジェクトで、国土交通省をはじめ警察庁、総務省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省といった各省庁と、さらには地方自治体や民間企業、学術組織の協力と連携が必要です。元来、こういった連携は非常に難しいのですが、おかげさまで今回のプロジェクトでは見事に実現しました。これは非常にすばらしいことで、愛知万博でも一部実験します。

我々がなぜこういうことをやっているかというと、日本という国は世界で最初に高齢化社会を迎えるからです。お年寄りや障害者の方々が積極的に外に出て活躍できる社会にしないと日本がもたない。そのときに、デジタルやIT で何ができるかを考えて、実現していきたい。日本は軍事を放棄していますし、外交的にも強い指導力があるとはいえません。日本が世界に対して何ができるのかを考えたとき、人々に安心を与えるとか、IT やコンピュータで人々を助ける、そういう技術は世界に貢献できるのではないかと思います。ユビキタスコンピューティングで何ができるかというと、そういう安心安全を世界に提供することではないかと考えています。

これまでTRON を20 年ほどやってきて、今が一番手ごたえがあります。あと10 年くらいで、理想としている世界が実現するのではないかと感じています。

――ありがとうございました。

坂村健(さかむら けん)

東京大学大学院情報学環学際情報学府教授。工学博士。電脳建築家。1984 年から TRON プロジェクトを手がけ、ユビキタスコンピューティングの分野においては世界の第一人者として活躍する。